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宮城県復興応援ブログ ココロプレス

「ココロプレス」では、全国からいただいたご支援への感謝と東日本大震災の風化防止のため、宮城の復興の様子や地域の取り組みを随時発信しています。 ぜひご覧ください。

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写真 「19年連続 生鮮カツオ水揚げ日本一」に向けて、気仙沼では生鮮カツオ水揚げが順調です。「今年はとりわけ脂が乗っている」と関係者の表情もほころんでいます。
2015.7 ~宮城県震災復興推進課~
2013年12月9日月曜日

2013年12月9日月曜日20:42
石野葉穂香です。

今回は、震災直後のお話です――。

被災した自治体の首長の必死の思いに、ある量販店の若い女性店長さんが、機転を利かせた好判断で応えてくれた・・・・・・というエピソード。
町長と店長。おふたりのファインプレーが、多くの人たちの窮地を救ってくれたのでした。

波高15m超という大津波に襲われた南三陸町。
総合体育館「ベイサイドアリーナ」や、町内の公民館、学校などの避難所は、着の身着のまま逃れてきた多くの避難者であふれていました。
服が濡れたままの人もいました。赤ちゃんを抱いたお母さんもいました。救援物資も届かずに、食事もとれない。誰もが膝を抱えてうつむくばかりでした。

「急ぎ必要な物資だけでも、何とか早急に手に入れられないだろうか?」 佐藤仁町長は考えました。
しかし、役場庁舎さえ流された南三陸町。買い物をするにも現金がありません。
そこで町長は、イチかバチかの行動に出ます。

町長の機転。手書きの証明書


町長は、上の写真のような文言をコピー用紙に走り書きし、これを職員に持たせ、町外の被災していないエリアへと走らせました。
「掛け売りで、何でもいいから買ってこい――」

PCもプリンタもコピー機もなかったため、何枚もの紙に書き殴りました。
町長のハンコもありません。だから、このメモを見たお店の人も、ほんとうに南三陸町の職員かどうかなんて分かりません。

「とても不安でした。でも、ほかに方法がなかった」と佐藤町長。

そして、職員が、いざ町外へ出てみると・・・・・・。
多くの街が停電中。揺れによる建物被害、流通のストップ、販売スタッフの欠勤などもあって、営業しているお店はほとんどありませんでした。
また、手書き証明書を差し出しても、けげんそうに眺めたあと「ウチはちょっと・・・」と断るお店がほとんどでした。

こちらは岩手県にある薬王堂一関三関店の震災後の様子。
3月12日か13日ごろの写真とのこと。
外に何人かのお客さまが並んでいます

職員の I さんは、峠を越えて隣の登米市へ向かいました。登米市内でも開いているお店はほとんどなかったそうです。
旧中田町の加賀野地区に差し掛かったとき、ようやく店頭販売をしているお店を発見しました。
「薬王堂 登米加賀野店」でした。

登米市にある薬王堂登米加賀野店。
外観は震災時から大きく変わってはいません


加賀野地区は、量販店が比較的多く立ち並ぶ商業ゾーンですが、震災から2~3日目だったこの日、営業していたのは薬王堂だけでした。

I さんは、店頭販売していたスタッフを通じて、店長さんを呼び出してもらいます。
そして、出てきた店長さんに先の「証明書」を見せながら、南三陸町の惨禍と窮状を訴え、掛け売りをお願いしました。

すると店長さんは、大きくうなずくと、Iさんを、お店裏手の搬入口に案内し、そして、こう言ってくださったそうです。

「どうぞ、必要なものを必要なだけ、お持ちになってください」

一関、築館、大崎市古川など、大きな街のお店を訪ねた職員もいました。
でも、掛け売りに応じてくれるお店はほとんどなかったそうです。
すべてがダメだったわけではありません。でも、この薬王堂登米加賀野店の対応は「すごかった。ほんとうにうれしかった」と、南三陸町役場では、のちのちまで職員たちの話題に上ったそうです。

普段は整然と商品が並ぶ店内。
でも、震災から数日は、
陳列棚から落ちた商品で足の踏み場もなかったそうです。

それから3カ月後の6月上旬。佐藤仁町長は I さんが運転する車で登米市迫町を通り掛かりました。
そのとき「町長、実はですね・・・」と、町長は、この話を初めて聞かされたそうです。
「それなら、ぜひお礼を言わなければ!」
佐藤町長は、登米加賀野店を訪ね、そして、その店長さんと初めて会ったのでした。

「そんな機転を利かせてくれた店長さんなのだから、結構ベテランの人なのかなと思ってました。ところが、お会いしてみれば、加賀野店にやってきてまだ数カ月という20代半ばほどの若い女性でした。この人が、とっさの判断でウチの町に物資を回してくれたのかって・・・。驚きもしましたし、いや、もう感激でしたね」


「当時の店長は、川崎恵美子という者でした。ご家族の事情で、残念ながら、今はもう当社を退職してしまいました」
と話すのは、(株)薬王堂の岩渕智也さん。
「明るくて、ハキハキしてて、笑顔を絶やさない社内の人気者。評判の元気社員でした」

当時、川崎さんの下で働いていた日高純一さん(24歳)にもお話を伺いました。
「とてもやさしい方でした。川崎店長は、震災直後の南三陸町の状況も知っていました。だから〝南三陸から来た〟っていうお客さまを、実は優先していたんです」


津波で壊滅してしまった志津川店。
JR気仙沼線志津川駅の近くにありました

薬王堂は、当時、東北地方で130店舗を展開していましたが、沿岸部を中心に20店舗が営業不能となり、そのうち11店舗は壊滅してしまいました。
それでも「地域の人たちのために」と、無事だった店舗に対しては、本部から「翌日から営業するように」との指示が出されたそうです。

登米加賀野店も、店内は商品が散乱するなどして大変でしたが、店頭に机を置き、お客さんのオーダーを受けて、スタッフが店内へ商品を取りに行く、という対応を取っていました。


川崎さんの、とっさの判断。後日、薬王堂社内では、どう評価されたのでしょう?
独断で掛け売りしたことを叱られたり・・・・・・なんてことはなかったのでしょうか?
 
「もちろんそんなことはありません(笑)。彼女は会社の一員として、そして被災地の隣町にある店舗の責任者として、正しいと思った行動をしたのですから」(佐々木大輔さん)

「まずお客さまの安全確保。そして地域の人たちのためにいち早くお店を再開する」
左から営業本部店舗運営部スーパーバイザー佐々木大輔さん、
当時の登米加賀野店スタッフ(現在は志津川店勤務)の日高純一さん、
営業本部店舗運営部ゾーンマネージャーの岩渕智也さん
震災後、薬王堂社内では、あらためて「災害時行動マニュアル」を策定しました。
そこには
「人命第一で行動すること」
「一刻も早く店を開店するように行動すること」
「正しいと思うことは現場で臨機応変に対応すること」
とあります。

――まさに、川崎さんの行動そのままです。

今は志津川店に勤務されている日高さんも、
「店長の行動はすごいと思いました。もしもまた災害が発生してしまったときなどは、僕もそんな対応ができたらって思っています」

佐藤仁町長からも、メッセージをいただきました。

南三陸町役場町長室にて。
「町民は、ホントに助けていただきました。
機転の利いたファインプレー。感謝、感謝です」

なお、職員の I さんが、登米加賀野店から真っ先に買って帰った商品は「粉ミルク」だったそうです。
「店長さんはエライ。でも、ウチの職員もエライ(笑)」

今はもう退職されてしまった川崎さんですが、佐藤町長をはじめ、南三陸町の役場職員の皆さんは、あらためて感謝の気持ちを伝えたいとおっしゃっています。
そして、粉ミルクを赤ちゃんに飲ませてあげることができたお母さんたち、そして多くの町民の方も、きっと。

川崎さん――。
どこかで、このページがお目に留まれば幸いです。

(取材日 平成25年11月26日・27日)